てるてるブログ日記

音楽とか読書とか、

また、ブログを始めてみようかな。。。

表現することって、やっぱり好きです。

最近はベースを使ってYoutubeに動画をあげたり、完全に自己満足だけど自分はここにいるんだよ。こんなことをしてるんだよ。という言葉以外の方法で、自分を認めてもらいたいんだと思います。

 

3年くらい前からこのブログは止まっていました。就職したのがきっかけで、自分のことを振り返る時間なんてなかったのかもしれないですね。その必要がなかったと言ってもいいかもしれません。でも悩みながらこの3年間は過ごしてしまいました。

 

教員になりました。中学校で英語を教えています。特定されるかもしれないので、これくらいしか言えませんが、楽しいことも大変なこともたくさんあって、でも自分の本音を言える場ってあまりないんですよね。だからここでは吐かせてください。自分のことを成長させられるように、またブログ書いてみます。

 

記録用です、

勝手にふるえてろ −自分をわかってもらっているのか−

 

映画『勝手にふるえてろ』を観てきました。

前知識入れずに松岡茉優ちゃん初主演映画ということで観に行きましたが、ラブコメディでしたね。でも客層におじちゃんが多かったのはなんでだろうか?

 

あらすじ:

OLのヨシカは同期の「ニ」からの突然の告白に「人生で初めて告られた!」とテンションがあがるが、「ニ」との関係にいまいち乗り切れず、中学時代から同級生の「イチ」への思いもいまだに引きずり続けていた。一方的な脳内の片思いとリアルな恋愛の同時進行に、恋愛ド素人のヨシカは「私には彼氏が2人いる」と彼女なりに頭を悩ませていた。そんな中で「一目でいいから、今のイチに会って前のめりに死んでいこう」という奇妙な動機から、ありえない嘘をついて同窓会を計画。やがてヨシカとイチの再会の日が訪れるが……。 (映画.com)

 

とにかく松岡茉優ちゃんが可愛かった〜。そしてそんな松岡茉優に想いを寄せるまっすぐな渡辺大知くんがすごく元気をくれる人物で、その真っ直ぐさにニコニコしてしまいました。

 

でもタイトルである通り、一番印象に残ったのは自分は誰のことをわかっているのか、自分を誰にわかってもらえているのか、ということでした。

 

ヨシカに恋する「ニ」くん、「ニ」というのは二番目の「二」であって、ラインを交換したその日にキリハラという名前は編集されてしまいました。不名誉なそんなあだ名「ニ」くんの前ではとても言えない。だから「ニ」くんには、「江藤さん」「よしか」と呼ばれても、相手の名前なんて言えない。そんなヨシカの相手を知らない、知ろうとしない姿が、グサっと刺さってしまいました。

 

また、同窓会に出席したヨシカ、でも自らが計画したのに嘘を使っていたからこそ企画者が自分だなんて周りは思っていなかったこと、高校時代地味だったことからクラスメイトと再会しても「誰だっけ、あれ?」と名前を思い出してもらえないこと。誰からも知ってもらっていない現実がよしかに突きつけられるシーンがとても切なかった。

 

でも、そんなヨシカに「ヨシカ!」と名前を叫び続ける「ニ」くんと心配する同僚の久留美ちゃん。周りで自分のことを思っている人に対しても、疑いキツく当たってしまうヨシカ。自分のことを大切に思っている人をわかってあげられないヨシカ。結局誰よりも自分が大切なんだろうけど、そんな時に少しでも相手を想う優しさがあればいいのになぁ。って思ってしまった。

でも、優しさはいくら取り出しても減らないもので、人間全員それを持っているからその優しさをヨシカが出した時はホッコリしました。みんな自分のことで一生懸命だから相手を思った少しの心遣いがすごく響いたりするんですよね。

「感謝の言葉」が心を温める。

 

脳内にしかいない積極的なヨシカが、なんのひねくれもなく1人の名前もわからない誰かに声をかける瞬間がすごく好きでした。

 

毎日見る駅員さんやコンビニの店員さん、ちゃんと感謝しようと思いました。

そして自分の友人、仕事仲間、全部の自分をわかってもらっているのかと言えば、そんな人はほんのわずかしかいないし、自分が全部をわかってあげられてるなんてことは、多分ない。だからわかってあげられることはわかってあげたいと思うし、自分のことももう少し信じて話してみようと思う。

 

僕にとってのこの映画は、ラブコメディではなくて、そんな感じの映画でした。

 

furuetero-movie.com

 

うーん、、、

 

 

自分の言いたいことを相手に伝えれば完結だ、それで終わってしまったらあまりにも一方的すぎる。

一方で、自分にはいらない情報だから受け入れずにやり過ごす、それでは自分を変えることなんか出来ないんだろう。

 

本音と建前、事実と真実の間の距離感をもっと理解する努力が必要だった。

 

大切なのはお互いが相手を思いやる心、信頼関係が築けていないなら本音を言ったって相手には伝わらない。

でも信頼関係を築きたいから自分を知ってもらおうと自分の心を裸にして本音を先に言ってしまうのだって手段だ。

 

目的はなんだ、相手を思っての行為は、実は自分の為だったのかなぁ。

 

 

俺の先輩のマイブームは自己否定、何が悪かったんだろう。もっと出来ることがあったんじゃないのか、もっと相手のことを思いやれればよかったのかなぁ。

 

 

「温かい人」になる「心の勉強」を

 

「自分は、人より偉い」と思っている人間はそう思っている分だけ、「マイナス人間」なんです。ところが、社会的に地位がある人ほど、心の中で、そう思っている人が多い。

 

多くの場合、医師は患者よりも自分が偉いように錯覚する。政治家も国民より自分が偉いように錯覚する。法律家も、そうです。学者は、自分の専門のこと以外は、知ろうとしないのに、自分が他の人より偉いように錯覚する。自分が食べるお米も作れないくせに、農家の人より自分が偉いように錯覚する。

 

そういう「人間を見くだす人」が高い地位にいるせいでは、いつまでたっても、社会はよくならない。その間違った考えを、ひっくり返さなければならない。

人を差別するなら、なんのための医学か、なんのための政治なのか。法律なのか、学問なのか、。少しばかりの知識を鼻にかけて、人を見くだすような人間をつくってしまったら、大失敗です。

 

「人の心を大切にする」人を作るための勉強であり、学校です。それが「心の勉強」です。「頭の勉強」だけではなくて。

 

池田大作ー希望対話ーより

 

 

今年は読みたかった本に手が出せなかったなー。でも心に残る本には出会えました。

 

12月には色々と楽になるので、読みたい本読み始めよう。

来年はモンテクリスト伯ノートルダム・ド・パリ三国志を読めるといいなー。

 

 

幸せについて本気出して考えてみるためのきっかけ

 

夏休み中、今年一番刺激を受けた人に出会った。

同じ大学に通うHさん。同じ授業をとる仲間と飲みにいった時にその人はいた。

ほぼほぼ初対面だったけど、隣に座ると人のことをとても気遣ってくれる人だとわかった。

 

僕の通っている学部は通信教育部だから僕と同世代の人はほとんどいない、ほとんどが年上で社会人経験をしていて、仕事の合間を縫って大学に通っている人がほとんどだ。

だから飲みの場にいても、そうした人たちのこれまでの経験、思いを聞くのはいつも楽しいし、勉強になる。

 

そうした中で自然と話題はHさんに移った。彼は最初、俺の話なんかという風に話を拒み続けたけど、結局折れて自身の話を聞かせてくれた。

 

結論から言えば、彼は中学時代相当ないじめを受けていた。学校にいけば机には花が飾られていたこともあったという。きっと僕には耐えられないほどのものだった。

原因は彼がある事情のために学校を休まなくてはならない日が多くあったからだという。でも彼は耐え抜いた。耐えることができたのは、彼には夢があったからだという。それを叶えていつか見返してやろうという思いしかなかった。

 

しかし、現実は残酷なもので彼はその夢を叶えることができなかった。

 

 

でも話を終える時、彼は僕たちに言ってくれた。「去年この話を話したら、泣いてくれる人がいた。こうして語ることで、みんなに認めてもらえるようになって、やっと俺生きててよかったんだなって思えるようになったよ。」と。

 

 

僕にとって生きる目的は幸せになることだと信じている。多くお金を稼ぐことでも、結婚をして良い家庭を築くことでも、自分の欲しいものを手に入れることでもそれは可能であるとは思う。

けどそれができなかった時、人は不幸になるのか。

貧乏になってしまった時、別れを経験した時、何もかも失った時、それは不幸なのか。僕は考える、それだけじゃないんだと。幸せはもっと別の形なんじゃないかと。

 

例えば僕は教師を目指しているから、受験のためだけの学力至上主義ははっきり言って嫌いだ。その価値観は無意味な優越感を子供達に与え、逆に無意味な劣等感を子供達に植え付ける。

高校受験に失敗したらその子のやってきたことは無意味であったかのような学校教育はいらない。学校という場は彼らが将来幸せになることが大切なんだと教えなければならない。そのヒントをHさんはくれた。

 

失敗して終わりじゃない、自分の思い通りに行かなかったひからと言って不幸じゃない。

絶対それには意味がある。幸せになれるから大丈夫だ、諦めるな。そう自信を持って語れるヒントをこの夏の出会いは教えてくれた。

 

 

yukiyanagi 一番好きな詩

 

「光」が噴き上がっていた。

「命」が噴き上がっていた。

「咲きほとばしる」と言うべきか、抑えても抑えても、抑えきれない春のエネルギーが、

真っ白な「光の噴水」となって、勢いよく湧き出していた。

 

雪柳は「雪」であり「花」だった。「冬」であり「春」だった。

白という光の中に、春と冬が溶け込んでいた。

まるで、希望と苦悩が渾然一体になっている青春時代のように。

青春は、苦しい。悩みばかりだ。しかし、悩みがあるから、心は育つ。

うんと悩んだ日々こそ、一番不幸だと思った日こそ、あとから振り返ると、

一番かけがえのない日々だったとわかるものだ。

 

だから苦しみから逃げず、苦しみの真ん中を突っきって行くことだ。

それが森を抜ける近道だからだ。

寂しければ、その寂しさを大事にすることだ。寂しさや悲しさを、遊びなんかで、ごまかすな。

使い捨てるな。耐えて、耐えて、自分を育てる「こやし」にしていけ。

逃げたくなることもある。

でも、雪柳は動かない。雨の日も、寒風の日も、じっと自分の場所で根を張って頑張っている。

頑張り抜いたから、みんなのほうから「きれいだねぇ」と来てくれる。

人間も、魂の根を張ったところが「自分の故郷」になる。

完全燃焼したところが、心が安らぐ「自分の居場所」になる。

 

私は、みんなにお願いした。

「お父さん、お母さんを大切に」

君たちが生まれる時、どんなに、お母さんがたいへんだったか。

あなたが大きくなるために、両親は、どんなに疲れても、眠れなくても、大事に面倒を見てくれた。苦しい仕事にも耐えて働いてくれた。

 

あなたが初めて声たてて笑った時、初めて歩いた時、どんなに両親は幸せでいっぱいになったか。

病気になったとき、どんなに、おろおろと心配したか。

感謝できる人は幸せな人だ。

 

雪柳は太陽への感謝を忘れない。

太陽は、いつも惜しみなく光を注いでくれた。いつも、ありのままの自分を、そのまま受けとめ、

光で包んでくれた。だから今、雪柳は「太陽への恩返し」のように、明るく周囲を照らしている。

 

人間だって、花と同じように、光がいる。人も、人から大事にされないと、心が枯れてしまう。

 

だから君が、みんなの太陽になれ。

 

人間だって、花と同じように、水がいる。

 

自分で自分を励ましたり、喜ばせたり、心を生き生きさせないと、心は枯れてしまう。

自分で自分を励ませる人は、すてきな人だ。人のつらさも、わかる人だ。

自分で自分を喜ばせる言葉を、強さを、賢さを!

落ち込んだ心を、よいしょと自分で持ち上げて!

自分で自分を好きになれないと、人だって愛せない。

 

記念撮影を終えて、私は雪柳に近づき、カメラを手にした。

 

天をさして咲く花もあれば、地を向いて微笑む花もあった。それぞれの個性が集まって、光の束になっていた。

そして雪柳は、すべての力を、ただひとつのことに傾けていた。

天から与えられた自分の生命を生ききること。自分が種子として持っていたすべてを、表現しきること。自分本来の姿へと開花すること。それ以外、何も願わなかった。

 

ほかの花と自分を比べようなんて夢にも思わなかった。人が自分をどう思うかなんて、どうでもよかった。自分にできるかぎりのことをすること、それしか思わなかった。

今、だれもが個性、個性と簡単に言う。「自分らしく生きる」と言う。

でも本当は、それは茨の道である。みんなと同じようにしているほうが楽だからだ。

 

柳のようにしなやかな雪柳の枝に、無数の星が光っていた。無数の宝石で飾られた王冠のようだった。

そう、自分の道を歩み抜いた人は、だれでも英雄だ。「みんなが一等賞」なのだ。宝冠の人なのだ。

だから「自分にできないこと」ばかり数えて落ち込んだり、文句言ってるなんて愚かだ。「自分にも今、できること」が何かある。必ずある。それを、やり抜く人が偉いのだ。その人が最後は勝つ。

 

 

雪柳は敏感だった。だれかが通り過ぎただけの風にも揺れる。

あなたも、恥ずかしがり屋なら、そのままでいい。無神経になり、デリカシーをなくすことが「大人になる」ことじゃない。コンクリートみたいに固い花はない。花は、みんな柔らかい。初々しい。傷つきやすい。人の思いに敏感なままの、その心を一生咲かせ続ける人が、本当に「強い」人なのだ。

 

運命は外からやってくるんじゃない。君の心の中で毎日、育っているのだ。

毎日がつまらない時。それは自分が、つまらない人間になっているからかもしれない。

人生をむなしく感じる時。それは自分が、からっぽの人間になっているからかもしれない。

人生に、うんざりした時。人生のほうが君にうんざりしたと言っているのかもしれない。

人間は結局、自分自身にふさわしい人生しか生きられない。

だから、成績は中くらいでもいい、人間が大であればいい。頭がいいとか悪いとか、成績だけで分かるものじゃないし、生きる上で大したことではない。

ただ、自分が「不思議だ」と思う疑問を大事に追求することだ。そのことを考えて、考えて、考え抜くことだ。

そして、いざという時、真理と正義のためなら、自分を犠牲にできる人になれ。そんな人が一人でも増えた分だけ、この世は美しくなる。

 

世界のどこかに、君にしかできない使命が、君の来る日を待っている。指折り数えて待っている。待たれている君は、あなたは生きなければ! めぐりあう、その日のために!

 

輝くためには、燃えなければならない。燃えるためには、悩みの薪がなければならない。

青春の悩みは即、光なのだ。

 

雪柳も、冬の間に積もった冷たい「雪」たちを、枝から染み込ませて今、「花」に変えて噴き出しているのだろうか。

中国では、その名も「噴雪花」という。

                     池田 大作 (『雪柳 光の王冠』より)

 

 

 

www.youtube.com

 

頑張らなくてもいいんだよ、ありのままの君でいるなら

 

僕の胸にずっとある詩です。

真田丸が終わった

 

2016年、12月18日、今年の大河ドラマであった真田丸の放送が第50回をもって最終回を迎えました。1週間後の日曜日に真田丸を観られないことが少し寂しいです、これがロスか。。。

 

今まで大河ドラマは観てこなかったけど、真田幸村(実際には信繁)を主人公にしたドラマと聞いて、これは観よう!と思い一月の放送からずっと観続けてきました。

三谷幸喜の脚本が良かったのと、演じる役者が良かったのとで、退屈な回などないほどに夢中になり、毎週放送が楽しみでした。

本当に堺雅人さんを始めとする役者の皆さんお疲れ様でした。

 

真田信繁武田信玄に仕えた真田昌幸の次男としてこの世に生まれ、47歳、夢半ばで散った戦国一の兵と詠われる武将です。しかしその信繁が活躍したのは夏の陣、そしてその前の冬の陣とおよそ8ヶ月の期間だけでした。

ではその8ヶ月の間に信繁は何をしたの?

戦国時代最後の戦が大阪冬の陣と翌年の夏の陣です。この戦で徳川家康は豊臣家を滅ぼして江戸時代、そして徳川の地位と譜系を磐石なものにします。真田信繁はこの時豊臣方に味方し、大阪冬の陣では大阪城の弱点とされていた場所に”真田丸”という出城を築き大活躍、徳川を破ります。翌年の大阪夏の陣では豊臣方が崩れ、負けが明らかになった時に自ら徳川の本陣に突撃、家康をあっと一歩のところまで追い詰めた武将として有名です。

 

今回の真田丸で描かれたのは、真田信繁の目を通した歴史的事件と、真田家のお話。

 タイトルの真田丸とはつまり、大阪冬の陣で徳川を破った出城と、真田家という家族を乗せて行く先もわからない戦国史を旅した家族の話でもあるのです。

 

現代の我々にとって歴史なんて過去のこと、資料を読めば一発でわかるその時代を、実際に生きた人にとっては未来に何が起こるかわからない、それを表現した脚本だったから、いろんな登場人物の判断が、例えそれが間違った判断だったとしても、その立場を考えれば納得してしまう。だからこそ悲しい。心苦しい場面が多々ありました。

この登場人物いいな、って人が多くてそれは脇役であってもすごく感情移入ができるから、兄である真田信之(幸)、豊臣家の石田三成、今回敵として描かれた徳川家康、それぞれがそれぞれの立場でその時その時を一生懸命に生きた、そんな芝居を見せられて心が動かないわけがなかったですね。

 

そして信繁役の堺雅人さん、ほんとーにかっこよかった、優しさと強さを兼ね備えた信繁大好きになった!!!

兄の信幸(信之)を演じた大泉洋さん、今までのイメージから全く異なる真面目なキャラクターは素晴らしかった。

そして父、昌幸を演じた草刈正雄さん、彼以外の昌幸はもう考えられないってくらいピッタリの役でしたね。だからこそ、昌幸がオープニングのクレジットでいなくなった時は本当に悲しかった。

 

今回の大河ドラマを観て、大河ドラマに完全にハマった。真田丸は自分の大河ドラマの原点になりました。

ただいまロス真っ只中12月30日の総集編を楽しみに待っています。